ミネラルタウン**(黒)クリフ×クレア

綺麗な涙


 午後七時。
 それは仕事に疲れた人々がこの場所に集まってくる時間。
 クレアはその時間を少し過ぎた頃にやってきた。
 カウンターの、いつもの席に座る。
 そしていつもは空かないはずの隣の席を見て、新ためて昨日の出来事を実感させられた。
 山ぶどう酒を頼む。
 いつもよりおいしくない気がする。それはきっと気のせいだ。
「まさか、クリフがねえ……」
 クリフ、という単語が出てくるだけで、クレアは自然とそちらに意識を集中してしまう。
 今彼らが話す話題と言えば、一つしかない分かりきったものだとしても。

 それはクリフが本性を見せてくれたすぐ後のことだったと思う。
「前に、話したことあったよね? 故郷に帰った時、母さんが死んでいて、妹は行方不明」
 クレアは頷く。
「……あんたの場合、それが原因?」
 仮面を被るもの同士とはいえ、原因まで同じなわけがない。
 クレアの場合は取るに足らない些細なものだった。
 親がめったに家に帰らない仕事をしていて、ただ愛情に飢えていた。
 人見知りで、おまけにめったに笑わない無愛想な子供だったから、好んで構ってくれる人もいなかった。
 だから仮面を被った。
 嫌いな勉強もした。馬鹿の一つ覚えみたいに毎回百点を取ったわけではない。いつもは平均点を取るように努力をし、ときどきいい点を取ってみせた。
 苦手な笑顔の練習も取り組んだ。嘘泣きだって覚えた。
 そういった演技という代償をもって、愛情を手に入れた。それが仮面に向けられるでも。
「それだけだったらここまでにはならなかったと思うな。家族は大事だったけど何か支えが一つでもあればバランス取ることは簡単だから」
 クリフが言った。
 クレアは何かを失うことはなかったものの、子供の無邪気な欲望を支えれるだけの何かがなかった。
 だからクリフの言っていることが分かった。
「じゃあ、なんで?」
「母さんの死に目に会えなかったのは本当。妹が行方不明になっているのも本当。だけどそれは俺がそこに帰ってくるほんの数日前の出来事だったんだ。うちは親戚との付き合いはほとんどなかったはずなのにさ、ぞろぞろ集まってきた。そして彼らが問題にしていたのはいなくなった妹のことではなく、遺産だった」
 クリフはちらりとクレアを見やった。そして肩をすくめてみせる。
「まあ、多額じゃなかったけれど……結局巧妙な口実で全部持ち去られた。俺は初めからそんなものいらなかったのにね。死んだ母さんより、いなくなった妹より、そんなものを優先する人がむちゃくちゃにムカついた。だから俺は仕返ししてやったんだよ。犯罪的なものじゃない。そいつらが働いてる会社の上司さんと仲良くなって、彼らと個人的にお酒を飲んでいる間、少し口が滑っただけだ。もちろん傍らでは妹を探していた。そうこうしているうちに金がなくなった。まあ、収出のほうが多かったしな。――まったく復讐なんて割にあわなさすぎだよ。金がなくなった俺には、人と付き合う技術だけが残った。それだけでなんとか生きてこれることに気がついた。詐欺? とんでもない。ちょっと人の良心つつくようなことだけ喋ってれば後は向こうがなんでもやってくれる」

 どちらにしろ、仮面とやらをこの町の人にやったのが運のつきだった。
 この町の人たちといえば見返りを求めず、純粋に心から接してくれる。
 二人が彼らにコンプレックスを抱えるのは至極当然のことだった。
 そして昨日、とうとうクリフはそれに耐えられなくなった。
 もしかすると受け入れてくれるかもという期待があったのかもしれない。
 しかしもちろん世の中というのは甘くはなく、その告白は沈黙で返された。
 拒絶は直接にはされなかった。だけど指定の返事以外の行動というのはほとんど意味をなさない。
 優しさがあって、なんとか傷つけずにそのこと言おうとしているだけなのだから。
「うん、驚いたよ」
「あれが全部演技だったなんてね」
「全然気がつかなかった」
 誰の声か分からない。
 セリフだけが耳に届く。
 愛情を誰よりも欲するクレアが一番恐れるのは拒絶だ。それが目の前にある。
 それは自分に対しての物ではない。しかしその言葉はクレアに火の粉のように降り注いだ。
 耐えられなくなってクレアは出て行こうとする。
 ここの酒場は前払いだ。このまま誰と話さずに出て行っても不都合はない。
 出入り口の扉に手をかけた時、クレアの耳に驚くべき言葉が飛び込んできた。
「どうして町を出て行ったんだ?」
 思わず立ち止まった。
「まあな、居にくい雰囲気を作った俺たちも悪いとはいえ――」
「なんで?」
 声が出てきた。
 飲んでいた何人かがクレアを見る。
 そのうちの一人が不思議そうに聞いた。
「なんでって?」
「騙されていたのよ? なんでそういう事が言えるの?」
「でも、話してくれただろ」
「そうそう。それって俺達を信用してくれたってことだろ?」
 クレアは混乱していた。何度か口にしようと試みるが、結局言葉にはならず、唇を噛む。
 そしてすぐに宿屋の外へと飛び出した。

 外へ飛び出したクレアは広場を抜け、まっすぐ海岸へと走っていく。
「ザクさん!」
 クレアが叫ぶ。それはきちんと届いてたらしい。
 桟橋前にある小屋に辿りつく前に、ドアは開かれた。
 ザクは息を切らしているクレアを見て驚きを隠せないようだった。
「どうしたんだ? もう夜だろ?」
「ザクさん、船! 船が必要なの!」
「なにいってるんだ? ここに船が来るのは週に一。それも昨日だったんだぞ?」
「一つくらい使えるのがあるでしょ?」
「ああ、あれか。だからあれは非常用で、どうしても必要な時にしか――」
「今どうしても必要なの! お金なら後でいくらでも払うから!」
 ザクはクレアの気迫に押されたのか鍵を取り出した。
「だが船を操縦できるやつなんて――」
「自分でできる!」
 そう言うとその鍵を奪い取るように受け取った。
 いつも使われてない一艘の船。
 それに向かってクレアは走り出す。
 船に乗り込む。
 免許なんて持っていないが、そんなこと構っているクレアではない。
 鍵を差込み、エンジンをかける。
 船はすぐにミネラルタウンから離れ出した。

 クリフは港町のホテルの一室にいた。
 時計はもう未明といっていい時間を指している。
 昼に寝てしまったせいか、全然眠れなかった。
 ドアを叩く音がする。
 他の宿泊客が部屋を間違えたのだろうか。
 もう一度、音がした。
 クリフはのろのろとした足取りでドアのほうへと歩いていく。
 そして開けた。
「……クレア?」
 目の前にいたのは昨日――いや、おとといまでいた町でただ一人本当の自分のことを前から知っていた人物だった。
 クレアはずかずかと上がりこむと、それ一つしかないベッドの上に腰掛ける。クリフもおずおずと隣に座った。そして聞く。
「なんでここが分かったの?」
「金そんな持ってないでしょ? 都内のホテル、安い順に調べてきたの。偽名すら使わないんだからすぐに分かったわよ」
 クリフは黙る。何を話していいのか分からない。そもそもどうやってここにクレアがこれたのかさえ分からなかった。
 あの町から出るには船を使うしかなく、その船は一昨日自分が使ったばかりで、一週間は来ないはずだった。
 この計画を立てる時、わざわざ調べたのだから確かだ。
「馬鹿みたい」
 クレアが言った。
 主語のないその言葉に思わず体がびくりと反応する。仮面を被り始めてからというものの、けなし言葉には久しい。
「町の人、あんたのこと受け入れたよ」
 その言葉は実感を伴わなかった。
「……嘘?」
「嘘でこんなとこまで来ないわよ!」
 叫ぶと同時にクレアは立ち上がる。
「馬鹿みたい」
 同じ人物が言ったとは信じられないくらい、消え入りそうな声だった。
 うつむいたまま、クレアは言う。
「みんな馬鹿ばかりよ」
 下から見上げれる位置にいるのだが、クレアの顔は長い金髪に隠れていて見えない。
「みんなを騙していたあんたも、それを受け入れる町のみんなも」
 クリフはクレアの顔に手を伸ばす。
「そんな町のみんなを信じられなかった自分も」
 彼女自身に触れる前に、落ちてきた水滴で手が濡れた。

 クレアが泣き終わったのはずいぶんと後だった。
 泣きはらした目を擦ると、彼女は言った。
「帰るわよ」
「どこに?」
 思わず聞いてしまう。
「決まってるでしょ! ミネラルタウンよ!」
「でも、俺は……」
 あの場所へ帰ることなんてできるのだろうか。
 全て思い通りだ。
 だけどその幸福は思ったよりもずっと大きすぎて、触れただけでもてあましてしまっている。
 そして。
「俺は?」
「俺は……俺には、幸せになる権利なんて……」
 叩かれた。頬がすごく痛い。
「幸せになる権利? 馬鹿じゃない? あんたがそんな物持ってるはずないでしょう!」
 あまりといえばあまりのセリフにクリフは言葉につまった。
 だけどクレアは次の瞬間、いきなり優しい口調に変わる。
「あんたはね、幸せになる義務があるの。生きてるかぎりその義務を放りだしちゃいけないの。分かった?」
「……馬鹿みたいだ」
 クレアの口調を真似てクリフは言ってみた。
 本当馬鹿みたいだった。
 理屈の通ってないそれに、クリフは納得と安堵しているのだから。
「お互い様」
 クレアはそう言うと笑った。

 二人がミネラルタウンに帰ったのはその日のお昼過ぎだった。
 海岸には、ミネラルタウンの住人が集まっていた。
 みんなの見ている前で二人は再びこの土地に足を踏み入れる。
 住民達と顔をあわせたとたん、クレアは頭が真っ白になった。なんと説明しようか、思考を巡らす。
 その気まずい沈黙にクリフは苦笑した。
 もう賽は投げられているのだ。やることは一つしかない。
「ま、これから俺達のことよろしくお願いします」
 本当の口調でクリフが言った。
 それに対し、声があがる。
「当たり前でしょ?」
「もっと早くに言ってくれれば良かったのに」
「俺達そんなに信用ない?」
 そんな軽口を叩いている人たちをよそに、何人かが首を傾げた。
「――達?」
「ってことは、クレアも?」
 一気に視線がクレアに集まる。
 町人達の反応にクリフが驚いている顔をしている。
「あ」
 クレアは気がついた。
 自分はなにも言ってなかった。
 クリフがそれを言ったとき、自分はなにも言わなかった。
 クリフの言葉が沈黙で返された時、彼がなにも言わないのをいいことに、自分は絶対に話さないことにした。
 誰よりもずっと卑怯者だ。
 クレアはみんなの視線から逃れる為に体の向きを変える。
 そして歩き出した。
 一人でここを出るために。
「あークレア?」
 ザクの声。
「"お金なら後でいくらでも払う"んだったよな?」
 嫌な予感がした。
「牧場の道具箱の中に全財産入ってるわよ」
 背中で答える。
 その予感は期待へと変わっていっていく。
「いや、多分足りないと思うよ。だって払ってもらう金額は――」
 彼が口にしたのは聞いたこともないような数字。
 もちろん全然足りない。
 クレアは驚いて振り向いた。
 クレアを迎えたのは優しいミネラルタウンの住民達の笑顔。
「払うものは払ってもらわないとね」
「ま、利子はつけないから。気長に払ってくれ」
 ひどく稚拙なやり方に、思わず涙が出た。
 そしてクレアは。
「おかえり、二人とも」
 それは泣きながらだったけれども、初めてみんなに本当の笑顔を見せた。


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