ミネラルタウン**カイ×クレア

忠誠心


 朝日に包まれた小さな家の中に、机の上に一つの写真立てがあった。
 そこに写っているのはカイとクレア。
 カイは深紫色のスーツを、クレアは真っ白なドレスを着ている。
 ぱっと見ただけでもそれが結婚式用のものだということが分かる。
 クレアはそれをぱたんと前に倒した。
 そして彼女はすぐに仕事に取り掛かる。

 カイは海の家に近いということで、結婚してからも宿屋を利用している。
 休みである週末だけ、牧場に来てくれるのだ。
 一年も待ったクレアにとって一時間で行き来できる距離は短いもので、なんとも思ってはいない。
 変な夫婦ね、とみんなに言われる。
 クレアは笑ってごまかす。
 本当はそんな理由なんかじゃない。
 結婚してから三日目、クレアとカイは壮大な夫婦喧嘩を繰り広げた。
 いっしょに過ごした時間よりずっと長い時間の空白。
 それをもてあましてしまっていた。
 じゃあどうしたいんだよ。
 そう言うカイにクレアはいう。
 いままでどおりでいいんじゃないの、それでうまくいっていたんだから。
 事実それっきりケンカはしていない。
 でもだからと言って、本当はこうしたかったわけじゃない。
 そういえば、夏の終わりの計画についてはカイとは何も話し合ってない。
 ときどきクレアはひどい不安に襲われる。

 その日の午後、カイがやってきた。
 これは結婚前も、結婚後も変わらない。
 彼は休憩を提案し、クレアは二回断り、三回目でそれをしぶしぶ承諾した。
 二人で遅めの昼食を食べている時、カイはいつもより饒舌にクレアに話しかける。
「だいぶ涼しくなってきたな……」
「うん」
 そう言ってクレアは自家製のサンドイッチを手に取った。
「まだカレンダーで言えば夏だけど……」
「うん」
 クレアは言葉をうまく出せない。
「あの海の家、もう客来ないんだよな……」
「うん」
 それでもカイは気にしてないように、話しかける。
「秋、だから……」
「うん」
 クレアはさっきミキサーにかけたばかりのフルーツジュースを飲む。
「だからな……」
「うん」
「なあ、話聞いてる? クレア……」
「うん」
「そういえば俺、帰る便決まったんだよね」
 底抜けに明るい声。
 まったく変わらないトーンの返答。
「あのさ、クレア」
 次に出る問いはもう知っている。
 そして、
「一緒に、来てくれないか?」
 その問いの答えももう決まっていた。
「嫌」
「へ?」
 カイが思わず変な声を出す。
「カイのことは好きだよ。愛してる。でもね、」
 クレアは牧場を見やる。
「全てを捨てるわけにはいかないの」
「ごめんね」
 その間、一度もカイとは目を合わせようとしない。
 カイがその沈黙に耐え切れなくなったように笑い出した。
「そっか、そうだよな。じゃあまた来年」
「またね」
 そして、毎年夏の終わりに交わした同じ挨拶。

 その日は一日中ベッドの中で過ごしていた。
 心配して様子を見に来てくれたポプリの話によると、カイは船の出航時間を遅らせてまで待っていたそうだ。
 良心がちくりと痛んだがもう過ぎたことだ。
 ずっと横になっていたせいか、真夜中になっても眠気は全然やってこない。
 しかたがなかった。牧場があるから。
 それは事実であるにしろ言い訳みたいなものだ。
 一緒に暮らすということで、関係が壊れてしまうこと。
 それが怖かった。
 そしてキッチンに足を運ぶ。
 コップ一杯の水を、息継ぎもせずに飲み込んだ。
 犬の鳴き声が聞こえた。
 今日の仕事やもものすけのことはコロボックルに任せていたので、おなかをすかせているわけではない。
 とはいえ、夜中はいつも家にいれていた飼い犬のことを思い出し、クレアは苦笑した。
 番犬にならないなんて笑い話を過去にしたことがあったけれど、本当は私が寂しいだけなのだ。
 広い家に、誰かのぬくもりが欲しかっただけなのだ。
 もものすけはそれを分かっていて、そばにいてくれる。
 誰かさんとは大違いで。
 一緒にいたいという思いといたくないという思い。
 その矛盾が無性におかしかった。
 もものすけの吠える声が一段高くなる。
「はいはい、今行くよ」
 その向こう側にいるはずの愛犬に声をかけ、とびらをあける。
 もものすけが飛び込んでくる。
 クレアはよしよしと両手で抱きしめて、
「……カイ?」
 すぐそこに彼の姿を見つけた。
「どうしてここに――冷たっ」
 伸ばした手は彼の温度を知らせてくれた。
 よく見たら全身濡れていて、
「まさか……」
 クレアがなにかを思い当たったように言う。
「そ。そのまさか」
 カイはにやりとした笑みを浮かべる。
「いやー緊急用のボート借りたんだけどさ、途中でモーターが壊れちゃって――クレア?」
 涙がひとすじ落ちる。それはせきを切ったように、あふれてきた。
 そして服が濡れるのも構わずに彼に抱きついた。
「ずっと、一緒にいるから」
 カイはそう言って、泣きじゃくるクレアの頭を子供でもあやすようになでた。


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